「学校」が自分に合った学びの場所ではないと気が付いてしまった息子|ホームスクール体験談

ホームスクール体験談
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学ぶのが大好きなのに、集団生活が苦手ではないのに、見たり・聞いたり・考えたり・話したりするのは得意なのに、読み書き中心で学ぶ方法があっていない。
精神論や努力ではどうしても埋められない溝がある。
「学校」が自分に合った学びの場所ではないと気が付いてしまった息子は、このままでは、俺は何も学べないで終わってしまう!!
このまま学校に行っていたら、俺は馬鹿になってしまう・・・と焦ります。

理事の岡田です。

私は、学校教育者の家庭に生まれ育ちました。
父方の身内は教育関係者で占められていて、いわゆる教育一家です。

しかも社宅育ちでしたので日々の生活自体が学校と物理的にも精神的にも強く繋がっていました。

日常的に遊ぶ友達のほとんどが教師の子、近所のおじさんやおばさんは皆「○○先生」と地域の人々から終生呼ばれることになる人でした。

お互いを「先生」「○○先生の奥さん」と呼びあい、子ども達もいずれは学校の先生となる事を望み望まれているのでした。

教員免許を取得し採用試験に受からなければ、先生にはなれませんが、まるで世襲のように先生の子どもは先生になっていくのです。

教職という職業的魅力や地方公務員としての経済的安定がそうさせるのかもしれません。

しかし、同じ公務員でも、子どもが先生と呼ばれない職種につくと、お気の毒に見られ、医者になるのならば喜ばれるという、まるで学校というお城を中心にした城下町にすむかのような特殊な価値観を共有していました。

そのような中で私は、学校以外の世界をしらずに生まれ育ったのですから、学校信仰者であっても不思議ではありませんでしたが、世の中に学校での学びが合わないタイプの人がいる事は知っていました。

人の学びのあり方は様々です。
カリキュラムや時間割り等により管理調整された中でも、苦痛を感じる事なく充分に育まれる人が大多数なのに、それらにより著しく学びが阻害される人が一部存在します。

彼らは、自ら自由に好きなだけ深く学び探究したいのです。皆と歩調をあわせて、言われるままに与えられたものをこなしていくことに学びの喜びを見いだせません。

私は、まさに「先生」と呼ばれる職種の方達のご家庭の中に、そのタイプをしばしば見聞していました。先生ご本人だったり、お子さんだったり・・・・両方である事もありました。

学校教育に関しては個人的に、重要な国策であり、大多数の人々にとっても必要な教育機関だという認識を持っています。
けれど、同時に、学校教育は国内の全ての児童生徒の学びのニーズや多様な才能をサポートするための教育機関として存在しないという現実も理解しています。

第一次産業革命以後、過酷な労働に駆り出される子ども達の権利を守るという崇高な側面を持ちながらも、その時代にとり重要な業種に適応する均質な人材を大量に世に送り出すための教育機関としての役割を「学校」は担っています。

そこでは、人類が生物として自然界で生き残っていくためのbalancerとして必要な「平均的でない、均質化は困難な能力や特性を持つ一定数の子ども達」に対する学びの配慮が立ち遅れています。

しかも、その時代時代で、大量に必要な人材の資質は変化していきます。

「第一次産業革命の時代に必要とされた能力やある種の社会性を持つ人材」を大量生産するために、やがて巡ってくるであろう、他の時代に於いて必要とされる能力を保持する一定数の人材、彼らを活かすための教育システムを構築する事は後回しにされてきた感があります。

しかも現在、すでに第四次産業革命に移行し求められる大量の人材へのニーズは変化しているというのに・・・それに伴う教育改革さえまだまだ教育の現場では姿を見出せません。

文科省が音頭をとってはいますが、現場では対応しきれていません。

旧来の学校教育の担い手である事に適応してきた現場の先生方にとって、その変革の波はとても辛く厳しいものであるように見受けられます。

時代に合わせた学校教育を推進するためには、新しいタイプの感性とスキルを持つ教育者を生み出す土壌造りから着手しなければならないと私は考えます。

さて、前書きが長くなりましたが・・・我が家のホームスクール経験談です。

平成12年3月、親も子も悩み迷いながら、幼稚園の縦割り保育方針に助けられたこと、幼稚園以外にも複数の居場所、学びと交流の場を得た事、あるいは様々な方々のお力添えの結果、ついに息子は幼稚園を満足して卒園することができました。
その後期待を持って入学した小学校でしたが・・・。

白壁沿いに桜並木が連なる坂を上って通学するその小学校は、息子が幼稚園の時尊敬してやまなかった郷土の偉人に縁のある歴史の古い学校でした。「きっと立派な学校に違いない!!そこに通って懸命に学べば尊敬する先生のようになれるかもしれない。」と大志を抱いていました。小学校入学前に大志を抱くなんて子どもがいるのか大げさなと、感じる方もいらっしゃるとは思いますが、ごく少数かも知れませんがそういうタイプの子も世の中に一定数は生まれてくるのです。

周囲に教え込まれたとか誘導されたとかいう事ではなく、自然に湧き上がってくる子がいるのです。

息子の言う「先生」とは、A市が誇る偉人渡辺崋山の事です。この方は幕末期の人、知らない方に説明すれば「幕末の蛮社の獄で処罰されたA藩家老・蘭学者・思想家・天才画家」です。

渡辺崋山自画像

鷹見泉石像(渡辺崋山画、国宝)

同時代の歴史上の人物高知の坂本龍馬のように全国的に有名ではありませんが、学校教育を受けた方なら歴史の教科書で彼の描いた卓越した人物画を目にしたことがあると思います。さらにいえば、彼は当時混迷する日本国内に生を受け己の信念に生き急いだギフテッドの一人でした。地元では史跡などもあり、郷土の偉人として、とても大切にされています。A市の小学校では渡辺崋山の少年時代を題材にした歌唱劇を学芸会での上演することを70年以上続けています。

参考資料1渡邊崋山の生涯を描いた紙芝居
http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/kamishibai/index.htm

息子の幼稚園が毎年発表会をする市民文化会館のホールの緞帳にA市の郷土の偉人である「渡辺崋山」の伝記の中の一場面が織り込まれています。上演される演目よりも時折降ろされる緞帳をじっと見つめている息子の姿に、いささか嫌な予感がしていたのですが・・

大名行列に無礼を働き打ち据えられた少年期の渡辺崋山

http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/kamishibai/05.htm より引用
(この逸話は事実ではなく創作と言われている。当時岡山藩に該当する少年世子ー篭の中ーはいなかったこと、また小藩とはいえ家老家子息である崋山が大名行列に対する作法を誤るわけがない。)

案の定「この人、なんであんなところで転んでるの?」という疑問からスイッチが入り、その後好奇心探究心が止まらなくなり、子供向けの冊子では満足できないので、地元の郷土資料館にまで行ってみることになってしまいました。

A市出身ではない私には、息子に語るだけの知識はありませんでした。

参考資料にあげた紙芝居よりも現代風に映像化されてはいましたが「渡辺崋山」の生涯をドラマ化したビデオを鑑賞するコーナーがあったのです。

「ふーん、渡辺崋山ってこういう人だったのかー。」と感心しつつ鑑賞中、ふと横の息子をみると、いつの間にか椅子の上で正座し直してじっと画面を凝視していました。そこまで畏まらずとも・・その姿は母親の目にも異様な感じでしたが、幼い息子なりに敬意を表して鑑賞していたのです。ビデオ以外にも、渡辺崋山の志の高さや天才ぶりを示す様々な遺物が展示されていました。

感受性の高い息子はすっかり感化され帰宅途中に「「坂本龍馬」ってよその人(高知県)だらー。おれ、やっぱりー「崋山先生(A県)」にするわ。」と晴れ晴れした顔で宣言したのです。
「先生?」

坂本龍馬を主人公にした長時間ドラマ「竜馬が行く」1997年放送のビデオ(http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d1038/) を観てからすっかり彼に心酔していた息子です。最後に龍馬が暗殺されてしまったとき、「なんで・・なんで・・・」と泣き出して、どうしても納得いかず、それから1週間程母親にまとわりついて「なんでサカモトリョウマ死なんとならんの?なんでー?」と質問攻めでした。
それが、急に心変わりし郷土の偉人渡辺崋山を心の師匠としてロックオンしたようです。
しかも「サカモトリョウマ」は呼び捨てでしたが渡辺崋山には「先生」をつけて呼びました。

人気アニメのヒーローや戦隊ものに憧れるのなら解りやすいのですが、息子は当時偉人の伝記物にはまっていたのです。

その後、自分が入学する校区の小学校が崋山先生ゆかりの学校だと言うことで、本人は意気揚々と入学に挑んだのでした。「この学校なら間違いない。自分の学びたいことが学べる」と思い込んで・・・。

しかしそこは全国どこにでもある普通の小学校でした。渡辺崋山が学んだ時代の
藩校ではありません。彼が描いたような個別指導で習熟型の「寺子屋」でもありませんでした。

渡辺崋山画「一掃百態」

そして他校と同じように様々な教育問題を抱えていました。いざ入学してみると息子にはそれがすぐに解ったのです。まだまだ社会性の未熟な年齢の同級生はつまらないことから揉め事を起こしていてまるで落ち着きがなく、若い担任の先生は手のかかる子供たちにいつも気を取られていてまるで余裕がない状態でした。入学間もない児童を預かり始めた小学校ではどこでも見られる光景でしたが、息子の思い描いた学びの場には見えなかったようです。

また、学校教育のシステムとして縦割りの集団生活の場はほぼありません。
朝の集団登校の時と下校後のみ、上級生との接触がありました。

なにより学習は同学年枠で足並みを揃えることが重要視されているので息子の生まれ持つ特性の凹凸に沿った学び方はかなわず、簡単すぎて退屈だったり、逆に合理的配慮がなされず学習効果がなかったり・・・。

教えられたことのみを覚えて習得していくという学び方をこれまでしてこなかった息子、生来読み書きが苦手ということもあって、余計に別の方法で学び取るという能力が伸びたのだと思いますが、好奇心と探究心のままに、あらゆるものから自由に学び取っていく習慣がすでに身についていた息子にとっては不安な思いがあったのでしょう。

先生が嫌いとか苛めてくる友達がいるとかいう理由ではありません。規律に沿った集団生活になじめないというわけでもありません。けれど、何が何だかわからないけれど、学校での学び方が自分には根本的に合わない、それが何故かもわからない。その漠然とした不安がどんどん広がり息子は心身消耗しながら半年以上を耐えていました。

その状況について親を含めた周囲の大人たちに伝えて納得させる根拠を当時の息子は知りえません。関わる親も教師も誰一人それについての知識を持たなかったのです。

幼稚園の時にしていたように、学校枠を超えた人間関係や居場所を維持しながら友達との幅広い交流をもとめてはいった習い事先でも、学校方式の「競争、比較、順位」がどうしても優先されていくようになり、次第に興味が薄れていきました。

息子の中で「このまま学校に通っていたら俺は馬鹿になってしまう。」という焦りや絶望感がどんどん募っていきました。

ホームスクールを始めた直後に、彼はまるで堰ききったように、

「なんで虹の色は七色に見えるの、あの色は何で出来ているの?」
「みかんはなんで、甘いのと酸っぱいのがあるの?甘さや酸っぱさを決める素はなに?」
「地球の中で宝石が出来るのはどうして?何が素なの、どうやって出来るの」
「宇宙は何もないのに、なんでミールはボロになっているの?」
「アメリカって日本よりずっと新しく出来た国なのになんであんなに進んでるの?」

などなど質問の雨霰を一日中降らせてきて(それでなくとも子どもが不登校ということで対外的に忙しかった)親を閉口させました。それが小さいころからの習性であり、これまで出来る限り答えてあげたあり、一緒に調べたり考えたりしてきたのですが、とはいえ、在宅してからすぐの一時期、あまりの質問疑問の多さに家事も車の運転もままならなくなりました。

たまらず子供向けの写真や絵柄や解説がもりだくさんの図鑑を4~5冊まとめ買いして、ドーンと目の前に積み重ねてやり「これを見て読んで、それでも知りたいことや解らないことがあったら、また聞いてみてよね。ママも一緒に考えてみるから。」と、とうとう逃げ道を作ったのでした。

「そうね!!これだけあれば当分・・・いいかな?」と息子はやっと大人しくなったのでした。それからしばらくは、じっーと図鑑を見つめている時間が多くなりました。まだ1年生だったので、内容の全てを理解することはなかったと思いますが、それでももっと追求したいときはその関連の本やテレビ番組を見つけたときに「この前ママに聞いてきたのってこれじゃない?」と知らせてあげたりしました。

今から思うと学校に行きだしてから、不登校になるまでの期間、このように持ち前の好奇心を発して色々聞いてきたりする事が絶えていました。

他のことに気をとられていたからなのか?
忙しくてそんな余裕がなかったのか?
学校生活では好奇心も封じられていたのか?

理由は定かではありませんが、ホームスクールにより息子本来の学びのスタイルに戻れたのかもしれないと思いながら、図鑑に見入るその姿を眺めていました。

「学校」に息子が日々通う事に満足していた私達親は、息子が欲する学びのあり方に無頓着であったのかもしれません。

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