幼稚園児の息子の悩み「なんで自分だけ他の子と違うのか?病気か?それが知りたい。」
息子は現在25歳です。
生れてからの発達が通常より早く、平均より知能が高く、視覚聴覚嗅覚が優れています。けれどそれらのことは、幼少期の息子にとって必ずしもメリットをもたらす要素ではありませんでした。
また、既存の学校での学びのありかたでは、本人にとっては学習効果が得にくいという事実がありました。
彼はそれをいち早く感じ取り、学校以外の学びの場を自ら求めて歩みだしました。
結果としてホームスクールや通信制高校での学びを選択したのですが、試行錯誤しながらも、自分の持つ特性と上手く付き合い、活かしながら学びを広げていきました。
そして現在、親元を離れ社会の中で、経済的にも自立する事が出来ています。
発達凹凸の特性には、学びづらさや生きにくさにつながる部分もありますが、逆に強みになる部分も確かにあり、どのようにしてそこに気が付き伸ばしていくかがその後の人生を豊かにする「鍵」があるのだと思います。
その「鍵」を息子は、多様な学びの中で手に入れる事が出来ました。
彼が生まれた当時、母親である私自身に子どもの発達凹凸特性についての知識はありませんでしたが、母子健康手帳や育児日記の中に掲載されている成長カレンダーの平均的枠内から息子がかなり逸脱しているという事には早くから気が付いていました。
子宮頸管無力症のため第一子を早産で亡くしていたこともあり、第二子の妊娠が分かってからは絶対安静状態を医師から勧められ、投薬や入退院を繰り返しての妊娠期間でした。
臨月まで持たせてなおの低出生体重児でもあったために結果として帝王切開となりました。
低出生体重児に関する資料
早産を防ぐための漢方薬とはいえ長期間の投薬や、安全に処置していただいたとはわかっていても帝王切開時の麻酔薬使用の影響にはやはり不安がありましたが、元気な子で保育器にも長く入らずにすみ、退院後も特に健康面に心配な事はなくすくすく育っていました。
当時歯科クリニックを経営していましたので、受付業務をしながら、手の届く場所に置いたクーハンに息子を寝かせて世話をしていました。それでも業務に支障のない程、手のかからない育てやすい子でした。けれど、私は「何かがおかしい」と常に不安に思いながらの育児をしていたのです。私にはどうしても気になる事が続いて、県内の公的な育児相談機関に電話してみたこともありました。
私が相談したのは以下の点です。
1.息子は、言語の発達が尋常でなく早い子で、生後7日目で喃語、生後3カ月から明瞭に単語を発しだし、7カ月では二語を使いこなした。1歳半の時には、自分の見た夢の話や自分の気持ちを丁寧に伝えてくる。
「言葉が出るのが遅いという子はいるが早すぎる事にもまた弊害はないのか。」
2.出生後7日で半寝返り、生後1か月半で首が座る。ハイハイをあまりすることなく7カ月で伝い歩き、10カ月で歩き始める。今1歳半なのに自分一人の力で公園の高い滑り台を上り下りしたり、夜中に自分一人でトイレに用を足しに行ったりする。
「自由に動けるとはいえ、まだ骨格もしっかりしておらず筋力的にも未熟な状態で本人の体に負担はないのだろうか。」
3.幼いのに、テレビドラマを見て内容に感銘したり疑問を持ったり、友達関係でも深刻に悩んだりしている。感受性が強すぎるのではないか。
4.記憶力が良すぎて周囲で起きた嫌なことや辛かった事が忘れられないで苦しんでいる。
けれど・・・そこでは「ここはお子さんの発達の遅れが気になるお母さんの相談場所であって、あなたの自慢話を聞くところではない。」と叱られました。「ただの自慢話」とされて途中で電話を切られてしまいました。今から24年前の事ですから、相談員の方に発達凹凸特性を持って生まれてくる子についての専門知識がまだなかったのかも知れません。
「小柄な子は自ら動きやすく、よく動く子は発達がよく進む」と言う事だけでも教えて下されば当時の私の不安も少しは払拭されたと思います。
そんな私を神経質な母親だと夫の身内も笑っていました。
舅は「優秀な息子(夫)」に比べて発育が遅れているわけでもないのに何が不安なのだというのです。舅は、学生時代も学業優秀で医院を経営している自慢の息子について、幼いころは体も弱く、過敏で育てにくい子だった事。しかも3歳まで発語がなく、性格的にも扱いにくさがあり育てるのに難儀した事を私に話して聞かせました。
姑は「私はいつも周りから母親の接し方・育て方が悪いからこんなになる。と責められてばかりで辛い子育てだった。自分としては下の子と同じように可愛がって懸命に育てたつもりなのに。」だから、健康で手のかからない息子の育児に不安になるのは馬鹿らしいことだと嗜めてきました。
夫自身にも子どもの頃に良い思い出は少なく、周囲の人間関係から孤立気味であった事は本人の口からも聞いていました。出産前に何度も「俺の子だから育てにくいかもしれないけど、叱り続けたり、閉じ込めたり、嫌味を言って苛めたりしないでくれ。心がひねくれてしまうから。それと国語や社会の教科が苦手かもしれないけど絶対馬鹿にしないでくれ。いくら頑張っても苦手な事ってあるから。」と頼まれていました。
舅姑と夫三人の話を現在の私が聞いていれば、おそらく夫には(幸い二次障害には至っていないが)発達凹凸の特性があったのではないかと感じたでしょう。
そして、我が子にも何らかの凹凸特性が生じているのかもしれない。不安で疑心暗鬼に苛まれたままで放置しておかずに何らかの手立てがこの子の子育てには必要なのだと考え行動したと思います。当時は思いもよらぬことではありましたが、実際にそうなっていったのです。
幼稚園の時は、音やにおいに対する過敏性がみられ、同時に言語の発達に著しい差があったためか周囲が幼く思えて居心地が悪く、行くのを嫌がるようになりました。
地元の保育園では保育料がパート従業員一人フルタイムで雇える金額だったので、わざわざ隣町の幼稚園に通わせたのは確かに親の都合です。けれど、幼稚園が二つあり、どちらがいいのかは息子自身が考えて選んだのです。しかも、息子は、二つの幼稚園を見学するという事だけではなく、園の入園募集パンフレットを私に読み上げさせた後、二つの幼稚園に各々お子さんを通わせている知人宅を訪問して、親御さんとお子さんに通う幼稚園について詳しく話を聞くという事をしたのです。入園前の年ですから3歳前です。
結果、暑い日には園内で読書の時間があり、興味深い習い事もでき、制服も気に入ったという事でA幼稚園に決めたようです。なのに、入園式に大泣きで、次の日から一週間は好奇心から通いましたがやがて愚にもつかない理由で行き渋りだしたのです。「あちこちおしっこ臭い。」「話が通じない。」「やたら暴れる子がいてこまる。」「幼稚くさい。」
「あのね、そこは幼稚園だから、おしっこ臭いのも、話が通じないのも、幼稚臭いのも当たり前なの!!自分だってまだ3歳でしょう。」息子の持つ感覚過敏に気づかないでいた私は苛々しました。
気付いていたとしても夫が持つタイプの症状がわかりやすい感覚過敏症とはまた違うので本人にどのくらい負担があるのかはかれなかったと思います。
感覚過敏症についての参考資料
https://www.kaien-lab.com/faq/sensory/
当時、私たち親にとって「不登校」は中高生のものという認識があり「核家族の一人っ子だからこそ集団生活は必要」という考えに囚われていました。
無理矢理引きずったり叱りつけたりして登園させていた時期がありました。
毎日登園中に「なんのために教育制度があるのかの論争」を幼稚園児の息子に挑まれながら通っていました。この折の息子の質問力には舌を巻きました。しかも親の知識を盾にした言葉に言い負かされたりする子ではありません。聞いて理解できない語句はわかるまでくらいついて聞いてきます。そして、それらをいつの間にか自らの語彙に収めてしまうのでした。
当時、読み聞かせによる読書量は増え続けていて、小学校高学年程度の内容を好んで聞いていました。
一方、身体症状がこれでもかと言うくらい出ていました。幼稚園の制服が大好きでお出かけにも着ていたほどですが、出先で同年齢の子達をみると気分が悪くなるという状態が続きました。
「なんで自分だけ他の子と違うのか?病気か?それが知りたい。」と本人の希望でカウンセリング等にも行ったことがあります。けれど本人の納得行くような答えは得られなかったようです。
幼児なので絵を描かせて見るという心理テストがありました。用紙の中央に立派な幹の大木があり、木の上のほうにむろがあり、その中に息子が落ちてしまって困っている。木が高すぎて両親も助け出せず困惑して右下から見あげているだけという図柄でした。両親の後ろに羊のような形の家がありました。
夢の話をしたこともあったようです。広大な洞窟の中に、炎を吐くドラゴンがいて自分はそれと戦わなければならないのだけれど、まだ3歳。闘う事は決めているのだけれど、どうしたらよいのかわからない。だれか助けて―と叫んで目が覚めるというものです。
息子から見た他者との関係では、
「教室の中に先生がいて、みんながごちゃっといて、ワイワイしていて、ぽつんと俺がいて。」というイメージが本人の中にあったようです。でも園の先生に伺うと、行動は集団の中からはずれていなかったのです。あくまで本人の精神的イメージの中の話でありどちらかというと優等生的な子だったそうです。
ありがたい事に、最終学年時の担任の先生は、過去に息子のように平均的発育ではないために園での生活に馴染めなかった子達を受け持った経験がおありでした。
内面に孤立感を持つ息子に「君は君でいい。みんなとちがっていてもいいんだよ。」と語りかけて下さるなど理解がありました。そのようなアプローチをいただけた事は大きかったと感謝しています。
息子は先生から見ると、「全く手はかからないが、本人の意に反して大人の都合で思いどおりにしようとしても無理、絶対ごまかしが利かない、すぐ見抜いてしまう。」手強い子どもだったそうです。
「大人の言動を不審そうにみつめている事がある時は、きちんと意図を説明すると子ども目線でみるとどう感じるかアドバイスをくれたり、率先して協力してくれます。」面倒くさい反面便利でもあったようです。
それが子どもらしくなくて可愛くないと思う人もいれば、なんとユニークで面白い子と喜ぶ人もいてまさに人様ざまでした。
「ただ、同年齢の中で一律横並びの世界だと、ちょっと窮屈だろうと思う、」とのことでした。
だからなのか同年代の中ではいつも精神的にみんなから浮いているような感じで孤独感をもっていたのかもしれません。
集団生活が苦手とか規則を守れないということはないし、特に消極的で大人しいわけでもない。体力は嫌になるほどある。一緒に行動する友達は沢山いる。
となると・・・周囲の大人や傍目から見て幼稚園生活がどうしてそんなに嫌なのかなかなか理解できない、別に普通にやっているようにしか見えなかったとしても無理はありません。
平均的でないのは仕方ない。後退させる術はない。同年齢集団の中での違和感や孤立感は周囲が成長すればいずれ薄れるとの事で、幼稚園側のご配慮が切掛けでいつも年上の子と遊んでいる事が多くなりました。
また、孤独そうな時には雑用に追われる先生方のお手伝いをさせて頂いたり、園での役割を与えてくれましたので、責任感の強い息子は自分が園に通う意義を見いだせました。
家庭でも、まだボーイスカウトに所属できる年齢ではありませんでしたが、ご縁があり、入隊予定の見学者として、異年令集団に属して共に活動できる機会を持ち始めました。その後、習い事等も出来るだけ異年令の中に入れる場所を幾つも探しました。
同じ一人っ子のお兄ちゃんお姉ちゃんの弟分になったり、同年齢のお友達の弟妹のお世話をしたり。その様子を見て、この子は、異年令集団の中での関係構築が得意なのだと発見しました。
同級生の仲良しの子は大人びた落ちついた子でしたが、他にも慕ってくれるお友達がどんどん増えていきました。
やがて別れの春が来ました。
笑顔で卒園する息子の姿を見て私達両親はやれる事は全てやり尽くして結果が出たと単純に喜んでいましたが、園の先生達は懐疑的だったらしいです。入学した学校で、理不尽な先生や乱れた学級に当たったら、もしかしたらまた・・・と。