米国ではすでにホームスクールは既成の事実として語られている。
50州すべての州でホームスクールは市民権を得ている。
小中高校生で全米で200万人のホームスクーラー(実践者)がいる。
20人に一人の割合である。
インターネットは子供たちを学校から解放してきている。
それは何を意味するのだろうか。
ホームスクールは制度ではなく、現実から発生しているということである。
歴史は繰り返す、と言う。
新しく進む道はいつかたどった道への旅かもしれない。
教育はその多くを公的セクターによって支えられてきた。
国民は国や行政に我が子の教育を依存しながら何か問題が起こったときにその責任を求める態度もとりがちである。
しかし冷静に考えてみていただきたい。
国や行政は教育に対して大変な負担を強いられてきた。
莫大な予算が投じられてきた。
教育機会の均等化、標準化つまり「誰でも均質で公平な教育の機会を受けたい」という国民の要望に応えてきた。
学校設置基準、学習指導要領、教員免許、検定教科書という規制も国民の要望から誕生してきたのである。
工業化社会において一番価値あるものとされてきたのが安全、安定、標準、規格である。
教育制度の枠組みはその価値に沿うものだった。
しかし90年代情報化社会の到来とともに、供給者による情報操作が難しくなってきた。
TV広告では消費者は踊らされなくなってきた。
インターネットという双方向メディアでは強いメーカーの責任が厳しく問われるようになってきたのである。
大新聞が報道する前に、たくさんの人がすでに事実を知っている、ということも起こっている。
消費者の選択する眼も肥えてきた。
子供たちは工業化社会の子供たちでなく、すでに情報化社会の申し子なのである。いまでも学校の情報化(IT化)がよく話題になるが、パソコンのハードウェアベンダー、OSベンダー、ソフトウェアベンダーの絶え間ないバージョンアップによって必要とされる巨額の公的支出を考えると自宅の簡単なIT化により可能となるホームスクールこそが情報化社会における教育のあり方に近く、より現実的かもしれない。
インターネット教育革命③「ホームスクールは、国や行政の負担を軽減」
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「インターネット教育革命」(日野公三 著、PHP研究所刊 1999年)より